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西岡孝明特任教授

西岡孝明特任教授
西岡孝明特任教授

─現在の研究テーマについて教えて下さい。

 マススペクトルのデータベースMassBankを作成しています。既存の遺伝子データベースとしてGenBankなどが有名ですが、このようなデータベースは実験事実を載せているだけです。人間の知恵や知識などの解釈が書かれていません。特に化学関連のデータベースでは、 ある物質の性質や、こんな化学反応がありました、という事実は多くのデータベースに記録されていますが、研究者がその反応からどういうことを理解したのか、という情報はあまり書かれていません。次世代シークエンサーなども開発され、情報は増えるばかりです。データがたくさん集まれば人間の理解も深まるとこれまで思っていましたが、実際はデータそのものが増えるばかりなのです。積極的に知識を集積し、新しい知識を作り、応用、活用できるデータベースが必要です。MassBankではマススペクトルを集めるだけでなく、新しい知識を生み出し、知識をデータベース化したいと思っています。

─何故マススペクトルのデータベースを作成しようと思われたのですか。

 1つの生物試料のメタボロームの化学分析によって、数百から数千の代謝物が検出されます。それらのうち同定されるのはたかだか600代謝物程度でしょう。それ以外は何かは分かりません。マススペクトルが専門の方は、じっと一つのマススペクトルをながめて、これまでの知識や経験から、「これはきっとATPのマススペクトルに違いない」などと判断します。しかし、数千も出てきたら、そんなことをやっている時間や人手はありません。こういったことから、LC-MSやCE-MSなどでマススペクトルが測定できれば、すぐにそれを化学構造式に推定して変換してくれるようなデータベースをつくりたいと思うようになりました。

 質量分析の専門家の知識をうまく集約して、メタボロームの解析や生命科学に応用したいのです。

 けれども、ただ知識を集積すれば良いということではありません。誰もが一度はWikipediaを見たことがあると思いますが、私はあれはデータベースだとは思っていません。なぜなら、全く関係のない項目同士で同じような議論があり、お互いに矛盾することが書かれていても、それを探す機能がありません。データベースでは、記述内容が互いに関連していて、その関係がクリアでなければなりません。Wikipediaには出典のリンクがついていますが、あれはページに書きこんだ人がリンクを付けているので、抜けていることもたくさんあるし、他の思わぬところに関連項目があったとしても、書き込んだ人が知らなければリンクはつきません。私はそういう関連情報がきちんと分かるデータベースを作りたいと思っています。

 問題は、ツールや入れ物をつくっても、そこにどのようにして質量分析の専門家の人の知識を入れるかということです。信頼性も議論できなければならないですね。

─何故このテーマの研究をしようと思ったのでしょうか。

 メタボローム解析を曽我朋義先生と一緒にはじめたときに、質量分析(CE-MS)で検出したマススペクトルから代謝物を同定するためには、代謝物の標準試薬が必要でした。けれど、標準試薬が市販されている代謝物は2,000ほどしかありません。それ以外の代謝物は検出されても、標準試薬がないために同定できないで、不明のまま放置されていました。メタボローム解析をもっと完璧にしようと思うと、2次代謝物のマススペクトルを収集したデータベースと、それらを解析して得られる知識(例えばマススペクトルと化学構造式との関係)をまとめたデータベースが必要だと感じました。

 マススペクトルのデータベースの歴史は古く、50年ほど前から作られていますが、有料で配布されてきました。そのため、 マススペクトルのデータベースというのは買うものだと多くの人は思っています。私はマススペクトルのデータベースを無料にしたいという思いもありましたの で、MassBankはインターネットで無料公開しています。この趣旨に賛同してマススペクトルを公開していただいている研究者のかたがたに感謝していま す。

─ ご専門はずっと質量分析なのですか。

 学生の頃は農学部の農芸化学という分野で学びました。農芸化学と聞いても馴染みのない方も多いかもしれません。例をあげますと宮澤賢治も農芸化学を学んだ一人です。盛岡高等農林学校を卒業して、田舎の生活を通して、人と農業とのかかわりを作家として感性で理解しようとした方です。私はそういう宮澤賢治的な生き方に憧れていましたし、小学校に行くまで母の実家(農家)で育ちました。そこで農薬中毒になる人たちを見て農薬が毒である理由を知りたいと思いました。昭和30年ごろの日本では低毒性の農薬は人には全く害がないと宣伝されていました。農薬の研究現場でも雑草や害虫には毒であっても人には害がないことを主張する研究者は研究費が潤沢でした。私はそのことにとても違和感を感じて、農薬の毒性や環境汚染について研究したかったのですが、当時の日本ではそのような機会は少なかったです。学位を取った後はアメリカのカリフォルニア大学昆虫学部Fukuto研究室でポスドクとして 殺虫剤のtoxicologyの研究をしました。この研究室では、農薬には動物に対する毒性があることや残留性があることを前提にして、人畜毒性の仕組み (生化学的な機構)やそれを軽減する農薬開発の研究をしていました。最初から毒性があることを前提とした研究姿勢は日本とずいぶん異なるものでした。

 農薬についてさまざまな研究をしましたが、ミカンを無農薬で作る和歌山県の農家にも大学生やその他のボランティアの一員として協力しました。この運動は京大農薬ゼミとして40年以上も引き継がれています。無農薬のみかんはさまざまな害虫や病気がつくので見た目は悪いのです が、確かに美味しいと思います。大きなものもあるし、小さなものもあります。無農薬ミカンを売るのも手伝いました。産直の始まりのようなものですね。このように、実際に自分が農業に関わることで科学者として何ができるのか、ということをいつも考えていました。

 そのような研究や活動をしているころに、植物やヒトの遺伝子が解明され始めました。DNAの塩基配列を決定できるように なってきたのです。すると、農薬研究者以外の生物学者が予想していたように植物、ヒト、動物、微生物で共通な遺伝子が数多くあることが分かりました。今では当たり前のことですが、当時は植物とヒトのタンパク質に共通点がそれほどあるとは思われていませんでした。ですから光合成を阻害する除草剤は(光合成を持たない)ヒトに毒性は無いはずであると考えられていました。この頃になってようやく、分子生物学という分野も出現してきました。ヒトと植物、あるいは、 ほかの微生物が同じ祖先由来で、同じような機能を持った遺伝子もあるし、光合成とミトコンドリアの呼吸には同じ機能のタンパク質もある、そういう生物としての共通性がやっと認められるようになってきたのです。そのころから日本の農薬も変わりました。人畜無害とは言わなくなりました。

 このような経緯から、人や植物の代謝経路などにどれほどの共通性があるのか、あるいは違いがあるのかを調べたいと思いました。

 このような背景があって、私は京都大学化学研究所で1980年代から代謝反応のデータベースLIGANDを作りはじめました。それが現在のKEGGの原型になっています。金久 實先生(京都大学化学研究所バイオインフォマティクスセンター)が代謝のバイオインフォマティク ス研究をおこなうために私のLIGANDに注目されました。初期のKEGG代謝パスウェイは全部私が鉛筆で手描きしました。それが今のPATHWAY mapになっています。代謝物も2,000化合物ぐらいは私が化学構造式を描いて入力しました。そのときからデータベースをつくっていたことになります ね。そのころに冨田 勝先生や当時大学院生であった有田正規先生(東京大学理学研究科)と知り合いました。

 KEGG PATHWAYを見てみると、基礎代謝やそれ以外の代謝でも、ほとんどの生物で共通している代謝反応や酵素があることが分かります。農薬の人畜無害という宣伝は何の科学的根拠もなかったことがよく理解できました。

─ これまでの研究生活で印象に残っていることや、転機になったことを聞かせて下さい。

 KEGGデータベースに協力していると、遺伝子というのは肉眼では見えないし、DNAの配列も無味乾燥なので少し方向転換したいと思うようになりました。ショウジョウバエのゲノムが解析されたころでしたので、ハエのように目で見えて、動くものを研究したくなりました。実は、幼い頃は昆虫少年だったんです。ちょうどそのころ、今から17年前ですが、京都大学の昆虫生理学の教授に移る機会がありました。そこで何を研究テーマにしようかと考えました。

 ファーブルの『昆虫記』(7巻23章)に、大きなクジャクガという蛾を捕まえてカゴの中に入れておいて観察する話があります。

 たまたまメスの蛾をカゴの中に入れておいたら、夜になると数十匹のオスがそのカゴに集まってきます。ファーブルがそれは何故だろうと興味を持ち、メスの触角を切ってみたり、羽だけをおいてみたり、いろいろな実験をします。その結果、メスが何らかの匂いを出していて、その匂いに導かれてオスが集まって来る、と結論づけます。今ではそのような匂いは性フェロモンと呼ばれています。

 その約50年後にドイツの生化学者Adolf Butenandt(1939年ノーベル化学賞)が、日本のカイコガの性フェロモンを化学的に明らかにしました。ところで、性フェロモンを受容しているレ セプターがオスの蛾にはあるはずです。例えばヒトには嗅覚受容体があり、蛾やハエには触角に嗅覚受容体があります。そこで性フォロモンの嗅覚受容体が一体何なのか、世界中で多くの研究者が探してきました。けれども、Butenandtの発見以後50年たっても誰も見つけられませんでした。

 私はこの話を思い出しました。昆虫少年の経験や読書が役立ちました。そこでカイコガを対象に性フェロモン受容体の研究を開始しました。幸いなことに櫻井健志君、光野秀文君(いずれも東京大学工学研究科)という優秀な大学院生が性フェロモン受容体を発見して、論文にまとめました。『Nature』に投稿しましたが、ダメ押しの実験がやや不十分としてなかなか採択されませんでした。その実験を二人に続けてもらうとともに東原和成先生(東京大学農学研究科)とも共同研究をすすめました。『Nature』編集部も1年間辛抱強く待ってくれましたが、残念ながら切れ味の良い実験結果がえられず、私たちは断念しました。米国アカデミー会員だった故上代淑人先生のcorrespondenceで2003年の『PNAS』(米国アカデミー 紀要)に発表しました。それが世界で最初に性フェロモンの受容体を見つけた研究になりました。

 それと同時に嗅覚受容体の新しい面白い現象が見つかって、『Science』にも発表しました。このように一つ新しい発見をすると、それを土台にして次の新しい発見をする、という経験をできたことは(辛い研究だったけれども)とても楽しかったです。それまでは人が見つけた DNAの塩基配列等をただKEGGに収集するだけでしたので、自分で新しい概念を作りだす機会はありましたが、新しい化学物質やタンパク質を発見する機会はありませんでした。世界中で誰も知らない新しいモノを発見したことは貴重な体験でした。

 同じころ昆虫生態学の研究を共同研究する機会がありました。ハーブの香りの研究です。ハーブは色々な香りがあり、健康や病気に効くということは知られていましたが、なぜそのような代謝物を植物が作り出しているのか理由はよくわかりませんでした。当時、私の昆虫生理学研究室は、昆虫生態学の高林純示先生(京都大学生態学研究センター)と同居していました。彼は葉っぱがダニに食われていくのをじっと観察していました。ダニはだんだん葉を食わなくなりました。彼の直感では、葉がダニに食われると、「葉が不味く(マズく)なるので」ダニが食わなくなるとのことでした。このように 植物は自分が不味くなることによって害虫から防御している、というのが彼の主張でした。「どうして不味くなっているかどうかわかるんや?」と聞くと、「虫の食い方を見ているとわかる」と教えてくれました。ある一匹に葉を食べさせ、お腹がいっぱいになってきたところで、別のおなかの減った虫に取り替えて、同じ葉っぱを食べさせようとします。そうするとお腹が減っているはずなのに食べないそうです。この機構を何とか証明したいと高林先生は虫に食われた葉の代謝物や葉からでる匂いをGC-MSで分析していました。これらの成分の一部がハーブとして知られるものでした。

 さらに興味深いことに、植物はハーブの香りを通して互いにコミュニケーションをしていることも高林先生は鋭い観察で見つけていました。ある植物個体が虫に食われると、食べられる害虫やダニによって組成(ブレンド)が異なる匂いを放出していることを見つけました。これは、「俺はいま青虫に食われている、という警報を周辺の植物個体に送っているんや」と、彼は教えてくれました。周辺の植物がその匂いを感受すると、未だ青虫に食べられないうちに自ら不味くなってしまうことによって、青虫に食われることから逃れる自己防御活動の一つだ、というのが彼の仮説でした。

 私はこの仮説を実証したいと思って高林先生と共同研究をしました。私のポスドクであった有村源一郎君(京都大学生態学研究センター)は植物個体が匂いによってコミュニケーションしていることを見事な実験で実証して、『Nature』に発表しました。害虫やダニに食われたと きに放出する異なる匂いを植物に嗅がせると、異なる遺伝子が発現することによって証明しました。それまで観察が中心であった生態学研究に分子生物学実験を取り入れて実証するという研究スタイルを確立した初期の一例となりました。それにしても「生態学者の観察力はすごい」ことを実感しました。

 このように約15年間を道草(昆虫生理学や昆虫生態学の研究)を食って、私はとてもリフレッシュをして研究をするエネル ギーを充電できました。1999年には小笠原直毅先生(奈良先端科学技術大学院大学)からメタボローム研究を始めてほしいという依頼がきましたので、 CE-MSの開発を始めました。2001年には慶應義塾大学先端生命科学研究所(IAB)の設立にあたって冨田さんからお誘いをいただきました。

─ 昆虫や植物がお好きなのですね。日頃からよく観察されているんですか。

 野外観察はよく行きますね。私は歩いて出勤する途中に、木に虫がついていたりすると、どういう虫かなとか、どういうふうに枯れていくのかな、など気になります。最近特に面白いと感じたのは、教科書にも書かれていることですが、センター棟の前でカラスが高いところからクルミの実をポーンと落として割っていることに気がついたことです。多くの場合、自動車が通る道などに落として、自動車に割らせたりするのですが、庄内ではそうではなく、高いところから落として割っていたんです。毎日割れたクルミの数が増えているような気がするので、一度数えて統計をとってみたいと思っていま す。

 庄内平野は残念ながら昆虫が少ないような気がします。寒いからなのか、お米作りがメインで行なわれてきたからか、雑草の多様性も少ないように思います。けれど、田川郡や平田町周辺の山に入ると昆虫の個体数は多いということに最近気づきました。地元の鶴岡の自然観察会の方と一度議論をしてみたいです。京都大学にいた頃は一年をとおしてよく山や川へ観察に行っていました。昆虫の研究をしていると観察するために外出するのは当た り前なのですが、慶應では昆虫の研究をしている人はいませんので、昼間から研究室にいないとさぼっていると思われそうで心配になります(苦笑)

─ 今後の展望をお聞かせ下さい。

 やはりMassBankデータベースですね。さっきお話ししたように、知識というものを扱える、利用できる、これまでにないデータベースを作りたいです。

─ 最後に一言お願いします。

 MassBankは世界の25研究グループが参加して計3万1千件のマススペクトルを公開するデータベースです。データ を公開するためのデータサーバが世界10ヵ所に設置されている分散型データベースです。EU諸国のユーザからの要望で、2012年11月に massbank.jpのミラーサーバmassbank.normandata.euがドイツ・ライプチッヒで立ち上がりました。これによって、飲料水や土壌中に含まれていて、生物体内に取り込まれるとさまざまな生理活性をあらわす環境(汚染)物質のマススペクトルがヨーロッパから公開される予定です。 2012年11月のアクセス数は1万件(一カ月間のユニークなIPアドレス数)に達しています。庄内生まれ、庄内育ちの若い技術者、二瓶義人君と池田 奨君が2人で6年間かかって開発したMassBankは世界で生命科学研究や環境科学研究に役立つ学術データベースにまで成長しました。IABが庄内にある幸せを感じるこのごろです。

─ ありがとうございました。

(2009年11月6日 インタビューア:小川雪乃 編集:喜久田薫 写真:増田豪)

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