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血球代謝の酸素センシング機構のシミュレーション予測とメタボローム解析による実証

コンピューター上で生命現象の解明に成功、情報学と生化学の融合へ大きな一歩を。

1. Kinoshita, A., Tsukada, K., Soga, T., Hishiki, T., Ueno, Y., Nakayama, Y., Tomita, M. and Suematsu, M. (2007) Roles of hemoglobin Allostery in hypoxia-induced metabolic alterations in erythrocytes: simulation and its verification by metabolome analysis, J Biol Chem, 282, 10731-41


 酸素や二酸化炭素などのガスを運搬する役割を果たす赤血球は、血液量の約50%を占める重要な細胞である。赤血球内にはヘモグロビンというタンパク質が多量に存在しており、ヘモグロビンにガスが結合し絶妙なタイミングで解離することで周辺の臓器や組織に必要な酸素を送り込んでいる。しかし、周辺組織の酸素状態を感知した赤血球がどのような仕組みで運搬する酸素量を調節しているのか、また赤血球細胞が自身の危険をどのように回避しているのかについてはあまり理解されていなかった。

 木下博士らは、これらの問題を数理モデルを使って解く、というこれまで困難とされていた取り組みに挑戦した。酸素濃度に対して赤血球の代謝がど のように変化するのかをシミュレーションモデルで再現し、それを実証することができれば、モデルの妥当性が示される。このモデルを使うことで未解決の問題 を解くことができるのではないかと考えたのである。シミュレーションによる予測結果を実験的に検証するためには網羅的で精度の高い代謝物質実測データが不 可欠であるが、IABの曽我教授らが開発しているCE-MSの技術がメタボローム解析に非常に適していることも大きな強みであった。

 最初のモデルでは、様々な代謝物質との結合強度を変化させることにより、周辺の酸素濃度の変化に応じたヘモグロビンの状態変化を表現し、周辺組 織が低酸素に陥った病態のシミュレーションを行った。ところが、この時点でのシミュレーション結果は実測データと完全に食い違っていた(グラフBの青い点 線がシミュレーション結果、グラフCが実測データ)。

 ここで木下らは、「モデルにはまだ足りない要素があり、その要素が重要な役割を 担っている可能性がある」と考え調査を進めた。その中で、解糖系の中流に位置する3つの酵素(PFK、ALD、GAPDH)とヘモグロビンが、バンド3と 呼ばれる膜タンパクの同一部位に結合することに注目した。さっそく、文献から得られた各結合定数を用いて3つの酵素とヘモグロビンの関係をモデルに組み込 んだところ、見事に実測データに一致し、急激に低酸素に晒された赤血球細胞内の状態を再現することに成功したのである(グラフBの赤の線がシミュレーショ ン結果、グラフCが実測データ)。

 要素を組み込む前後のモデルを比較して解析した結果、必要時(低酸素曝露時)にはバンド3とヘモグロ ビンや酵素が結合し、ATPと2,3-BPG(bisphosphoglycerate)という代謝物質を同時に増加させていることが予測された。ATP は細胞機能の維持や局所の血流調節に必要な、2,3-BPGは酸素を組織に放出するために必要な代謝物質である。こちらも見事に実証された。

  さらにモデルを解析することにより、エネルギー維持と組織への酸素供給を同時に実現するためには、PFK、ALD、GAPDHの3つの解糖系酵素による活 性調節が最も効率的であること、つまり、この巧妙なしかけが、局所での酸素センシング機構として非常に合理的なシステムであることを示した。

  代謝は、多数の酵素反応とその酵素反応を制御する分子群によって構成されたシステムの中で起きている生命現象である。必要な酵素反応と反応を制御する仕組 みを数式で表現しコンピュータ上で再現(シミュレーション)することができれば、特定の病態が起きたときに細胞の代謝にどのような変化が起こるか予測でき るはずである。しかし、シミュレーションによって導かれた考察の証明には実測実験が必要であるため、これまで生命現象を扱うシミュレーション科学の応用や 実用には高いハードルがあった。木下らは、シミュレーションとメタボローム解析を組み合わせ、かつ実際の赤血球を用いた生化学実験とシミュレーション実験 の条件を慎重に検討して両者をできる限り同じ条件で行うことでこの問題を解決した。情報学的手法と生化学的手法の融合に成功したことで、我々はシステムと しての生命現象の理解に向かって大きな一歩を踏み出したのである。


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<図の説明>
左 のグラフは低酸素に晒された赤血球における解糖系代謝の変化を示す。グラフAはシミュレーションで予測された解糖系酵素活性、グラフBは予測された解糖系 代謝物質濃度、グラフCはCE-MSによるメタボローム測定結果である。グラフA、Bにおいて、青の破線はバンド3を介した代謝調節機構をシミュレーショ ンモデルに実装する前、赤の実線は実装後のシミュレーション結果を示している。本研究では、シミュレーションモデルによる予測とメタボローム解析による実 証を行い、赤血球の酸素センシング機構(周囲の酸素濃度をセンシングして、組織への効率的な酸素運搬や細胞機能の維持などを行う機構)を理解する新たな手 がかりを提示した(右図)。

[ 編集: 小川 雪乃 ]

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