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心筋細胞発生過程のモデリングとシミュレーション

生命の泉源である心臓の発生過程をコンピュータ上で再現

1. Itoh, H., Naito, Y. and Tomita, M. (2007) Simulation of developmental changes in action potentials with ventricular cell models, Systems and Synthetic Biology, 1, 11-23


 単一細胞の受精卵からはじまる「生命」は、有糸分裂(卵割)を数日間くり返し、体を形作るための形態形成運動とよばれる過程を経た後、心臓をはじめとする様々な器官の形成をはじめる。心臓の基礎となる原基は形態形成運動の直後に形成され、たったひとつの細胞であった時から10日たらずで最初の拍動を開始する。そしてその拍動の停止は生命個体の死を意味する。

 このように、受精卵の卵割から個体としての死に至るまでの過程を「発生」とよび、発生の過程で原基細胞からさまざまな器官の構成要素へ特殊化し ていく過程を「分化」と呼ぶ。心臓は生命個体を構成する器官の中で最初に発生分化し、心臓自身の形や構成する細胞の役割分担を変えながら、未成熟な個体の 全身に血液や栄養分を運び、他の器官の発生分化をうながす大切な使命を担っている。

 成体の心臓は、生物種によってひとつ、ないしふたつ の心房と心室から構成されているが、特に心室は発生・分化の過程において劇的な変化を遂げる。伊藤らはこの心室を構成する心室筋細胞へと分化する細胞の一 連の発生過程に注目し、最初の拍動をはじめた直後まで時間をさかのぼり、そこから成体に至るまでの軌跡をたどるシミュレーション実験を行った。

 心筋細胞の膜上には多数のイオンチャネルが存在しており、細胞表面膜の陥入構造と細胞内の筋小胞体の放出部位が近接している。シミュレー ションを行うために、伊藤らはこれらすべての要素が実験式、すなわち実験データを表現することができるようにつくられた関係式で記述された包括的な心筋細 胞モデル(図1A)を採用した。そして「心筋細胞の発生過程における変化は、存在するイオンチャネルの種類の変化ではなく、量の変化で説明できる」という 作業仮説を立て、最初の拍動を開始した直後(胎生初期段階)、生まれる直前(胎生後期段階)、そして生まれた直後(新生仔期段階)、それぞれの心筋細胞に おいて細胞を構成する要素の量的な変化(図1B)を再現するモデルを作成した。

 このモデルを使ったシミュレーション実験では、胎生初期 段階の自律的な拍動が発生中期に停止する、という一連の過程をコンピュータ上に再現することができた(図1C)。そしてこの結果から、発生過程における心 筋細胞の電気的特性の変化のあらすじが、既知の細胞を構成する要素の量的変化によって説明できることを強く示唆した。

 このように、現象 を数式で表現して「理解」を試みる研究は「理論生物学」という分野に属している。高精度なモデルを用いてさまざまな試行実験をくり返すことによってこれま で細かく部分的に検証されてきた事象を客観的に統合することができることから、背後にひそむ因果関係を明らかにすることができる強力なアプローチとして期 待されている。心筋細胞の電気生理学的モデルは現在ある細胞モデルの中でも高精度に現象を再現できるモデルのひとつであり、理論生物学に適した対象である といえる。

 生命における最も重要な器官である心臓の発生は医学と理学の興味が交差する領域である。発生と疾患に深い関わりがあることが 示されている例として、天性心疾患の原因として心臓の発生分化の異常に着目しその分子機序の解明まで至った研究成果や、心臓の発生にかかわる分子が成体の 心疾患に関与する例などが豊富に報告されている。心臓の発生は理論研究の役割や応用例などを考案するという目的を達成するためには非常に適した融合領域で あると伊藤らは考えており、この融合領域において心臓発生という現象に対する科学的な興味にもとづいた探求はもちろんのこと、生命の理解における理論研究 のプロトタイプを提示したい、という大きな目標を掲げている。

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<図の説明>
心筋細胞発生過程のモデリングとシミュレーションの概要
A. シミュレーションに使用した細胞モデルの概要図。細胞膜上に存在する多種類のイオンチャネルが流す電流、細胞表面膜の陥入構造(t-tubule)や細胞 内の筋小胞体(SR; sarcoplasmic reticulum)の細胞内小器官を通したCa2+動態が数理モデルで記述されている。
B. 発生過程による細胞構成要素の量的変化の概要。げっ歯類の代表的な発生段階として、胎生初期、胎生後期、新生仔期、成体の4段階を定義し、各段階におけるイオンチャネル・細胞内小器官の量的な変化がまとめられている。
C. 各発生段階のシミュレーション結果。Bで示した量的変化は、電流-電圧曲線をはじめとした様々なin vitro実験のデータから成体との比(相対活性)として表しており、Aで示した包括的心筋細胞モデルの各イオンチャネル・交換体のコンダクタンス(電流 の通りやすさ)成分と相対活性の積を取ることで、発生過程による電気的特性の変化を表している。このモデルをもちいてシミュレーションを行った結果、胎生 初期段階の自律拍動、胎生後期以降での自律拍動の停止が再現された。

[ 編集: 小川 雪乃 ]

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