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細胞の運命を決定する遺伝子群の発見

特定の低発現遺伝子郡のダイナミクスが好中球への分化を誘導

Tsuchiya M, Piras V, Guiliani A, Tomita M, Selvarajoo K. (2010). Collective dynamics of specific gene ensembles crucial for neutrophil differentiation: the existence of genome vehicles revealed. PLoS ONE. 5(8):e12116.

  細胞はどのようにその運命を決定または転換していくのだろうか。私たちが人生においてさまざまな転機を迎えるのと同じように、細胞も「増殖」や「分化」と いった運命の転換を経験している。分化とは、細胞が複雑なシステムにより特殊化した細胞に変化することであり、分化によって細胞の大きさ、代謝、活動電位 などが劇的に変化することが知られている。我々の体は、ゲノム、タンパク、RNA、低分子化合物などの多様な分子が互いに連携しながら成り立っている巨大 な分子ネットワークであり、分化におけるさまざまな細胞の変化は、数千もの遺伝子が機能し協調的に働くことで成り立っている。しかし、未分化細胞において どのように特定の細胞への分化が決められ、どのような因子が分化の過程をコントロールするのかについては未知の部分が大きい。特に、これまでは個々の分子 を対象とした研究が主流であり、細胞全体としてどのように秩序を保っているのかについてはまだほとんど理解されていない。

 近年、この謎を理解するために、細胞分化過程における遺伝子発現やタンパク質量などの大規模な解析が行われている。そして、そのような生物要素が ネットワークを構築し協調して変化することが多数報告され、同時に、分化に関与する数千もの遺伝子の協調的機能を引き起こす何らかの"誘導因子"が存在す ることが示唆されていたが、具体的な因子は発見されていなかった。そこで土屋特任准教授らは、ヒト全骨髄球性白血球細胞(HL?60)において2種類の方 法(DMSOとatRA)で刺激を与え、それぞれが好中球に分化する過程の遺伝子発現データを解析した。低レベルの遺伝子発現データのみを対象にした結 果、特定の遺伝子群の発現が分化に関わる遺伝子全体の"誘導因子"となりうる可能性を示唆することに成功し、その誘導因子群を"genome vehicles"と名付けた。

 現在、多くの大規模遺伝子発現解析では高レベルで発現している遺伝子のみが対象とされており、本研究の 様に低レベルの遺伝子発現データに注目した例は少ない。それは、主に低レベルの発現データからノイズを取り除くことが困難なためである。しかし、筆者らは このように注目されてこなかった低レベルの遺伝子発現データこそ、協調的に機能する遺伝子全体の決定因子として重要なのではないかと考えた。低レベル発現 遺伝子の挙動を観察するために、遺伝子をグループ化することで、これまで不明であった発現ノイズ(揺らぎ)のダイナミクスが理解でき、遺伝子全体の様相を つかむ方法を考案した。この遺伝子のグループで、これまで観測されなかった遺伝子グループ間の協同的な振る舞いによる、グローバルな、ゲノム規模の遺伝子 発現制御機構の存在が明らかとなった。特に注目すべきことは、低発現している遺伝群が、グループとしてふるまいながら、グローバルな遺伝子発現制御機構の 主役となっていることが判明した。

 著者らは先行研究において、グローバルな遺伝子発現制御機構を、酵母の細胞周期とは独立した、遺伝子 群の集団的な発現波として観測(1)し、さらに細胞における炎症誘発の前に遺伝子全体が協調して変動している傾向を掴むことにも成功しており(2,3)、 この方法を用い本論文ではHL-60が好中球への分化する過程の遺伝子集団の変動傾向を解析している。遺伝子全ての変動傾向を観察すると、薬剤刺激直後は まとまりなく発現していた遺伝子群も、時間経過に従い全体的にある特定の発現傾向(アトラクター)に収束することが示された。しかも、その発現傾向(収束 領域)はDMSOとatRAいずれの方法による分化でも同様であったことから、遺伝子全体の発現傾向の変化と同様の様相で発現傾向が収束する遺伝子群こそ (Genome Vehicle)、遺伝子全体をコントロールする因子ではないかと考えた。そして、そのようにして選ばれた遺伝子群(約3000)を除くと、遺伝子群全体 の発現傾向の収束位置はDMSOとatRAで重なることはなかった。また、高レベルで発現している遺伝子のみで同様の解析を試みたが、これもまた収束位置 がDMSOとatRAで重なることはなかった。以上の結果より筆者らは、特定の遺伝子群が分化に関わる数千の遺伝子発現の誘導因子となり、さらには、その ような遺伝子群として低レベルで発現している遺伝子こそが重要であることを示唆した。本研究の様に低レベルで発現している遺伝子群に注目した研究例は少な く、今後、遺伝群がグループとして振る舞う原因を解明し、このようなアプローチから興味深い知見が多数報告されることが期待される。

(1) Tsuchiya M, Wong ST, Yeo ZX, Colosimo A, Palumbo MC, et al. (2007). Gene expression waves: cell cycle independent collective dynamics in cultured cells. FEBS J. 274, 2878-2886.
(2) Tsuchiya M, Selvarajoo K, Piras V, Tomita M, Giuliani A. (2009). Local and global responses in complex gene regulation networks. Physica A. 388:1738-1746.
(1) Tsuchiya M, Piras V, Choi S, Akira S, Tomita M, et al. (2009). Emergent Genome-Wide Control in Wildtype and Genetically Mutated Lipopolysaccar- ides-Stimulated Macrophages. PLoS ONE. 4:e4905.


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図:時間経過に従い遺伝子発現傾向が変化していく軌跡
各 図中にはDMESとatAB両方の刺激による変化が描かれており、各点はタイムポイントを表す。アルファベット順に"genome vehicles(ゲノム先導車)"、"genome vehiclesを除いた残りの遺伝子群"、"高発現している遺伝子群のみ"、"低発現している遺伝子群のみ"で遺伝子発現の変化を図示化しており、軌跡 が右上からスタートし、いずれも左下あたりで収束している。AとDではDMESとatABの収束点がほぼ一致したが、BとCでは収束点が重なることはな かった。

[ 編集:喜久田薫 ]

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