慶應義塾大学先端生命科学研究所慶應義塾大学先端生命科学研究所

論文/ハイライト

HOME 論文/ハイライト 研究ハイライト 論文ハイライト 細胞シミュレーションを用いて血液保存時の代謝作用機序を明らかに

細胞シミュレーションを用いて血液保存時の代謝作用機序を明らかに

保存血液の代謝シミュレーションモデルの構築と解析

Nishino. T., Yachie-Kinoshita.A., Hirayama, A., Soga, T., Suematsu, M. and Tomita, M. (2013) Dynamic simulation and metabolome analysis of long-term erythrocyte storage in adenine-guanosine solution. PLOS ONE. 144: 212-23.

  臨床医療において、輸血用血液の安定的な供給と保存が求められている。なぜなら輸血用血液は、採血後21日しかもたないからだ。人工血液が実用化されてい ない今、血液を長期的に鮮度よく保存する方法を模索することは非常に重要な課題である。以前、著者らは健常なヒトの赤血球代謝モデルを応用し、輸血用赤血 球製剤(保存血液)の代謝動態を再現するシミュレーションモデルを構築した(Nishino et al., J Biotechnol., 2009)。しかし、赤血球に含まれる代謝物濃度や酵素活性度、その代謝動態メカニズムについてはよくわかっていなかった。 

 ヒト血液を保存する際には、赤血球自身が生きるためのエネルギーであるアデノシン三リン酸 (ATP) と、ヘモグロビンの調節分子として働く2,3-ビスホスホグリセリン酸 (2,3-BPG)が保持されることが大変重要だとされている。しかし、ATPと2,3-BPGの保持に関しては代謝的に相反する作用が知られており、現 行の血液保存手法によってこれらの物質を同時に維持することは不可能だと考えられていた。一方、著者らはシミュレーション解析での予測によって、解糖系の 主要な代謝酵素であるホスホフルクトキナーゼ(PFK)の活性が他の酵素に比べて高い条件のときにはATPと2,3-BPGを同時に維持できることを示し た。両者が維持されている状態にある血液の保存液をPAGGGM液という。しかし、PAGGGM液PFKの活性化とATPおよび2,3-BPGを同時に保 持するメカニズムに関しては理解が進んでいない。そこで、著者らは構築済みの保存血液モデルを応用してPAGGGM液による保存状態をコンピュータ上に再 現し、ATPと2,3-BPGが同時に保持される代謝のメカニズムを詳しく説明しようと試みた。

 まず著者らはPAGGGM液による保存状 態を再現する代謝モデルを新たに作成した。同時に、PAGGGM液でヒト赤血球を保存する実験を行い、メタボロミクス測定によって代謝物質の時系列変動を 観測した。新しいモデルはメタボロミクス解析の実測結果を再現できており、予測モデルとして妥当であることが示された。代謝ネットワークの動態をさらに詳 細に把握するために、シミュレーション解析によって代謝酵素活性の経時変化を予測した(図1)。この結果から、4℃の低温保存下においても代謝酵素の活性 はドラスティックに変化しており、特に解糖系とペントースリン酸回路の酵素群の活性は、保存処理後約7日の間に急激な上昇と降下を示すことが予測された (図1)。この代謝酵素活性の時系列変化と代謝物質濃度の変動をもとに、保存期間中の代謝ダイナミクスを説明するための模式図を作成した(図2)。

  まず保存開始直後にPAGGGM液に含まれるグアノシンがブースターとなってペントースリン酸回路の一時的な活性化が起こり、解糖系上中流の流束が急激に 大きくなる。同時に、弱アルカリ性による効果で2,3-BPG合成系が活性化し、解糖系上流から流れてきた代謝基質は2,3-BPGとして大量に貯蔵され つつ、その下流ではATPの産生も促進される(図2-A)。この状態は約1週間続くが、それ以降(8?35日目)は液性が酸性に移行することで2,3- BPG合成系が逆流し、2,3-BPGは緩やかに減少していく。解糖系下流部は活性を維持するためATPは高濃度を保つが、その一方で解糖系の最終産物で ある乳酸やアデニン合成系の副産物であるヒポキサンチンが過剰に蓄積していくことが示された(図2-B)。

 本論文は、現行の生化学実験 では観測が困難な代謝動態の予測と解析をシミュレーション実験として行うことで、ATPと2,3-BPGが効率よく維持される作用機序を保存液の液性や添 加物の役割に照らして説明することを可能にした初めての事例である。これは、実験的な手法によって行われてきた従来の血液保存研究に「数理モデル化を通し て現象を再現・理解した上で、システマティックに血液保存法を最適化する」という新たなアプローチの可能性をもたらしたともいえる。また、既に構築済みの 精緻なモデルを再利用して新たな生物学的知見を発見するという本論文の研究方法は、細胞シミュレーション研究の今後の発展における重要なストラテジーにな るといえるだろう。

Image

図 1:赤血球保存時の代謝酵素活性(左)と代謝物質プール濃度(右)の時系列変化。左:解糖系、2,3-BPG合成系、ペントースリン酸回路、アデニン合成 系の各酵素の保存期間中の最大活性値を+1.0とした相対値で表現している。負の値は酵素反応が逆向きになったことを示している。右:代謝物質プールの最 大濃度を1.0とした相対値で表現している。

Image図2:赤血球保存後0-7日目(A)と8-35日目(B)における代謝ダイナミクスの模式図。図中の矢印の太さは代謝流束の大きさを、楕円の大きさは代謝プール濃度の大きさをそれぞれ模式的に示している。

[ 編集: 池田香織 ]

TOPへ